定期レポート2008年8月

ソフィア・アイ :オリンピック・リフレクション

北京で開催された祭典は、その国際環境の危うさにも関わらず、若き日本人アスリートの頑張りもあって、やはり私達を非日常の高揚感の中へと誘ってくれました。また、競技やその後の選手インタビューを見ていると、そこには高揚感と共に、私達自身への課題と教訓も示唆されているように思えます。
4年に一度の機会なので、その教訓の在り処を少し探っておくこともムダではないでしょう。

1.変化する環境への適応こそが本当の強さ/男子柔道百?超級・石井慧

男子柔道の最終日に行われる百?超級の戦いは、最軽量の60?級こそ内柴選手が優勝したものの、期待された90?級の泉や100?級の鈴木といった有力選手が次々に惨敗した後の、普通ならプレッシャーのかかる状況の中で行われました。
しかしながら、若干19歳で全日本チャンピオンの座についた石井選手は、そんなプレッシャーもどこ吹く風、蓋を開けてみれば文字通り世界柔道を代表する日本のエースに成長していました。
「1本で勝つのも効果や指導で勝つのも、勝ちは勝ち」と言ってはばからない石井は、しかし、その背景に常人に数倍する過酷な練習量と共に、世界を相手にして戦う上でのたしかな戦略と思考力を兼ね備えた秀才でもありました。
コーチから指示された道場練習や筋力トレーニングの膨大なメニュー、普通のトップ選手であればそれをこなすだけで毎日精一杯です。しかしながら、石井にとってそれは、単に過去に戦われた戦いに対する現状維持の努力でしかないのでした。およそ考えうる最大限の練習量をこなしながら、なおかつ、刻々と変化するトップレベルの水準に適応するためにさらに何をなすべきか。こうしたことを主体的に考えられる選手がいるということを、私達は世界チャンピオン石井の出現によって、はじめて認識したのです。
2度の「全日本」の座に全く甘んじることなく、オリンピックを控えた多くの期間を石井はヨーロッパ遠征に費やし、現地の選手達と試合や練習で相まみえてきたといいます。それは、日本古来の柔道にはない、いわゆる「J・U・D・O」の最新情勢を身をもって熟知する旅だったようです。その中で彼は、現在の日本柔道の「弱さ」を研究しつくし、世界で勝つために何が必要かを究めていったのでした。
試合後の軽口がすっかり有名になりましたが、それもむしろ、世界チャンピオン石井の思考と研究の膨大さの証左のようにすら感じられます。

2.“チーム”への目覚め/女子ソフトボールチーム

これまで幾度も跳ね返されてきたアメリカを破って、遂に栄光を掴んだ女子ソフトボールチーム。その金メダルは、準決勝以降400球以上を果敢に投げぬいた上野由岐子投手の貢献によってもたらされたように見えます。
しかしながら、その貢献には2重の意味がありました。ひとつは、彼女の投球そのものが、その技においても体力においても、そして勝利への執念においても、誰にもまねができないという意味での貢献。そして、さらに今ひとつは、その類稀な投球術の実践を通じて、チーム力の価値を改めて顕在化させ高めていった貢献です。
高校時代からすでに好投手として有名だった上野にとって、信じられるのは自分だけであり、たとえチームメンバーがミスをしても自分が好投すればいくらでも取り返せるという考えに当時は取り付かれていたといいます。
そんな上野投手に、腰の骨折というアクシデントが襲います。入院生活を余儀なくされた彼女を待っていたのは、意外にも自分が蔑ろにし続けたチームメートからの暖かい励ましでした。これが、彼女を自分自身へと振り返えらせる転機になります。チームの中で活かされてこそ、自分の活躍もあったのだという考えに思い至ったのです。
野球チームを見ても分かるように、どんなにトップ級のプロ選手を集めても、それだけでは世界の頂点を極めることはできません。「1+1」を2以上に高めている一流チームには勝てないのです。そこには、必ず何らかのチーム力、個々の力を数倍増する組織としての基礎力が不可欠です。
苦しい局面を互いに支えあうだけでなく、強敵アメリカチームの不抜のエースの癖を研究し、その成果から打撃対策を導き出すといった知恵。こうした点に今回の女子ソフトチームの優れたチーム力が表れていました。
そして、その中心に稀代の名投手・上野がいたのでした。

3.顕在化した筋力という課題/女子マラソン

年間を通じて、週末には国内のどこかで必ずランニングやマラソン大会が開催されている国・日本。そうした広大なランニング人口を背景にして、わが国は最近5大会連続でメダルを獲得してきました。
男子に有力選手がいない今回、自ずとその「伝統」継承への期待は女子選手に集まっていました。ところが、レース直前になって、前回アテネ大会の覇者・野口みずき選手が肉離れの故障のためまさかの欠場。残ったのは、フルマラソン2度目の新鋭・中村と、経験こそ豊富なものの勝利経験の少ない土佐の2選手になりました。いやなムードの中スタートしたレースは、案の定土佐が20キロすぎで故障のため棄権、中村も中盤以降はトップグループに付くことができず13位に終わりました。その結果、日本マラソン陣は連続メダルどころか、入賞すら逃したのです。
しかしながら、状況を冷静に見れば、この結果は必然であったように思われます。
走り出した女子選手集団を見ていると、最近流行りのお腹を露出したウエアのせいもあり、それはあたかも「腹筋自慢大会」といった様相でした。もちろん、腹筋だけではなく、上半身の肩口から腕にかけての筋肉、下半身の特に大腿部の筋肉が、どの選手も徹底的に筋力トレーニングによって鍛え挙げられていました。もちろん、日本の野口選手の肉体も同様なのですが、今回出場した2選手は共に、筋力面で極めて貧弱だった印象が拭えません。MIZUNO製の、最近では稀になった上半身全部を覆うデザインのユニフォームは、やまとなでしこの品格の表現というよりは、ひょっとしたら筋力トレーニング不足を取り繕うためのではないかと勘ぐりたくさえなりました。
そのほどに、日本代表選手と外国選手のトレーニングの質には大きな格差が存在していたのです。国内大会を見ても、野口選手のように十分な筋力トレーニングを行って体を作っている選手はまだ少数派です。
最近のランニング理論では、腹筋や背筋をはじめとする体幹部の筋力を鍛えることが、長距離走という過酷なレースにおいて正確な走行フォームを保持し、結果としてスタミナを有効活用する上で不可欠と言われています。
幅広いランニング人口を持ち育成環境に恵まれた日本ランニング陣が、再び世界と競い合うためには、近そうで意外に遠い“距離”が存在しているように思われたマラソンレースでした。

4.世界へ肉薄した入賞/女子トライアスロン

格闘技や球技の陰であまり目立たない女子トライアスロンは、女子マラソンとは正反対の力強い印象と受けるレースが展開されました。出場した日本の3選手は、例外なく豊富な練習量によって鍛え上げられた肉体を備えていました。3選手とも、終始先頭集団でレースを展開し、最も若い井出樹里選手(23歳)が、経験豊富な外国トップ選手と互角に渡り合い見事5位入賞を果たしました。
それにしても、トライアスロンとは、何と魅力的なスポーツなのでしょう。水泳、自転車、ランニングという、異なる筋肉を酷使する勇敢さの一方で、大自然の中に溶け込んでいくような雄大さと大らかさがあります。
今回2位以下に1分以上の大差をつけて優勝したオーストラリアのスノーシル選手は、優勝を確信したゴール直前で、自国の応援団と喜びの握手や抱擁を繰り返していました。彼女にとっては、そのことでロスする僅かなタイム(※恐らく20秒くらいはあった)よりも、喜びを仲間と共有し表現することの価値の方が遥かに大きかったのでしょう。
勝つためには、こうした強固なモチベーションに支えられた“余裕”も必要なのだと感じさせるレースでした。

5.自らをいかに勝利へ動機付けるか/陸上男子100M/ウサイン・ボルト

陸上男子100Mを、驚異的な世界記録・9秒69によってジャマイカの新鋭ボルトが制したことは、すでに周知のところです。
このボルト選手からさらに驚かされたのは、その勝利の様子でした。並み居る世界の競合に圧倒的な差をつけた上、決勝レースにも関わらず、最後は腕を下ろし横を向いて、流しながらゴールしたのです。このような光景を、誰もが初めて目にしたのでした。
レース後のインタビューで彼は、「勝利を確信した瞬間、喜びが沸きあがってきて、それを表現せずにはいられなかった」とコメントしました。
このコメントには説得力がありました。
レースだけを見て、そこに至るまでの練習の積み重ねを軽視しがちな私達は、ともすると忘れてしまいます。選手がその過酷な練習になぜ耐えることができるのかを。恐らくボルト選手にとって、自分の弱さに打ち勝ち、人類が歴史的に積み重ねてきた記録を塗り替え、トップ選手に圧倒的な大差でゴールを駆け抜ける自分のイメージこそが、日々の鍛錬への最大のモチベーションだったのでしょう。
その意味では、彼が最後力を抜いて喜びを表現したことも、そのような人類最強のパワーを獲得するに至った道のりの中での、ひとつの必然だったというべきなのかもしれません。

6.冷静なレースマネジメント/女子2百背泳銅メダル・中村礼子

女子背泳で2大会連続の銅メダルに輝いた中村選手は、インタビューのときには物静かでおっとりした表情が印象的な女性です。
メダルを獲得したアテネ大会後伸び悩んだ中村は、北島選手を指導する平井コーチに対して、たまたま一緒になった大会のバスの中で直接指導してくれるよう頼み込んだと言います。
そうして徐々に調子を取り戻した中村は、今大会で100Mこそ6位に終わったものの、200Mではそれまでの自己の日本記録を約1.5秒短縮する日本新記録で、見事銅メダルを獲得しました。そのタイムは、アテネ大会の自己記録と比べて、それをおよそ3秒も縮めるものでした。
加えて特筆すべきは、彼女の極めて冷静なレース運びです。
特に今回は、予選・準決勝・決勝という3つのレースをセットで捉えて取り組んだといいます。その結果、予選から徐々にタイムを伸ばすという巧みなレースマネジメントを見せました。
しかしながら、先日放映されたNHKスペシャルによると、100M決勝を終えて戻ってきた中村選手は、コーチの前で言葉を発することもなく、しくしくと泣き崩れていたといいます。その彼女に対して平井コーチは、「自分がこれまでやってきたことを信じろ!」といって、200Mの決勝に送り出したそうです。
競泳という試合は、選手とコーチがまるで振り子の両方の錘のように微妙なバランスで支えあいながら展開されている、実にデリケートな演技であることが分かります。
中村選手は、その冷静なマインドによって、オリンピックという大きな試合で、まさに絶妙のバランス感覚を発揮してみせたのでした。
「静かさ」の深層に秘められたメダルへの凄まじい執念は、春風が吹き抜けたような爽やかな印象を私達に残しました。
「記録を伸ばすということは本当に難しいことで、でも、それをこうしてメダルという形に残すことができ、うれしいです。」(中村礼子)。

7.「至宝」を証明する美しさ/女子バドミントン:小椋・潮田チーム

古代オリンピックで活躍した選手達の筋肉が躍動する姿は、いまでも遺跡の壁画等から知ることができます。
ある一つの競技のプレーを極めた姿の美しさ、女子バドミントンペアの「オグシオ」こと小椋・潮田の両選手は、それをはっきりと見せてくれました。
「オグシオ」のことはよく知っていても、およそ競技としてのバドミントンというゲームを終始しっかりと観戦するのは、多くの人にとって今回のオリンピックが初めてだったのではないでしょうか。筆者もまたその一人です。
ネット際に落ちようとする羽を精一杯開脚して拾おうとする姿勢、また大きく打ち上げられた羽を渾身のスマッシュで相手コートに送り返す姿の、えもいわれぬ美しさ。そこには、まるで昔の少女スポーツアニメの、誇張された現実にはありえないプレーシーンが、そのまま現実の人間となって飛び出してきたような、異次元の輝きが満ちていました。姿の美しさだけではありません。ショットが決まってもはずれても、大げさに喜ぶわけでも落胆するわけでもない、プレーヤとしての適度に抑制された稀有な品格を、潮田・小椋の両選手は兼ね備えていました。
オグシオペアが、「バドミントン界の至宝」と言われる理由がよく理解できました。
たった1度の勝利でしたが、至宝を目の当たりにする幸福を、オグシオペアはもたらしてくれたのです。
潮田選手が敗戦後に引退の意向を表明しているため、2度と出会えない儚さを添えて、勝敗を超越したオグシオという夢は通り過ぎていきました。

8.「世界」を掴んだ師弟関係のパワー/男子2百バタフライ・松田丈志

「最後のターンをして、前にはフェルプス(アメリカ)がいて、横のチェー(ハンガリー)と競り合っているのは分かっていました。でも、この銅メダルが、4年間(コーチと共に)頑張ってきた自分色のメダルだと思います」
準決勝で出した自身の日本記録(※1分54秒台)をさらに一気に1秒以上更新する1分52秒97をたたき出した松田選手は、レース後のインタビューで、「自分色のメダル」という示唆に富む美しい言葉を残してくれました。
彼の凄いところは、日本選手には珍しく、多様な種目に並行して取り組んでいるオールラウンドスイマーだという点です。今回のオリンピックでも、200Mバタフライ以外に、400M自由形と1500M自由形にエントリーし、特に400M自由形では惜しくも決勝に進めなかったものの、日本記録を3秒以上も更新する素晴らしい泳ぎを見せました。まさに、「日本のフェルプス」と言っても過言ではありません。いえ、日本水泳の世界との距離を、これほど短期間のうちに大きく短縮してみせたパワーは、日本人として「フェルプス以上」と賞賛したくなります。
松田選手が、お姉さんに連れられて地元宮崎のスイミングクラブに通うようになったのは4歳のとき。そこで運命の人・久世由美子コーチとめぐり合います。以来実に長い二人三脚の旅がはじまりました。
久世コーチが教え子との別れを決意した大学進学の時も、「コーチ帯同」での入学を認めてくれた中京大学の配慮で師弟関係は継続しました。それ以降はまさに師弟をも超越した「母子の関係」で、一緒に住み、久世コーチは食事等一切の面倒を見ているといいます。
そのコーチとの関係の意義を、決勝後のインタビューで松田選手は、「コーチとここまできたことを誇りに思っています。それを何とか形にしたかったのですが、こうしてメダルという形にできてうれしいですね」と率直に語りました。
表彰式を終えた松田選手は、真っ先にコーチの下に駆け寄り、コーチの首にメダルを掛けてあげていました。
尊敬の気持ちをベースにした、助言への絶対的な信頼感。自分を100%認めてくれる存在を意識する中での、モチベーションの持続。テクニックだけでなく、メンタル面の起伏や生活リズムに及ぶ情報共有を通じた周到なレースマネジメント……。師弟関係を通じた指導の意義を、私達は様々に思い浮かべることができます。
とはいえ、その究極の意義は、共に精一杯の成長を目指して同じ道を長く歩き続けることの喜びなのではないか。松田選手が師匠・久世コーチと共に掴み取った殊勲は、そう私達に語りかけているように思えます。
現代の日本には、ともすると、「NO.1」よりも「オンリー1」を尊ぶ風潮があります。しかしながら、松田選手が奇しくも語りきった「自分色のメダル」(≒オンリー1)は、「NO.1」を目指して、世界を意識した過酷な努力を、しかも気の遠くなるような長い時間戦い抜いた結果至りつく境地であることは、疑いの余地がないようです。

 

今回のオリンピックの大きな収穫は、なでしこジャパンの活躍にも見られたように、各競技の日本選手達のチーム力の向上です。ソフトボール、女子サッカー、卓球、バドミントン、陸上リレー、競泳メドレーリレーといった結束したチームの姿は、それらの競技が今後も世界でのポジションを着々と高めていくだろうという希望をもたらしました。
さらにもう一つの強い印象は、活躍した選手達の人格的な面の水準の高さ、日本選手として国を代表する意識の高潔さにありました。そうしたパーソナリティの力によって、エネルギーを瞬間に爆発させるだけでなく、競泳や体操・柔道に見られたように、大局観の中で適度に調整するレースマネジメントも実現していました。また、女子レスリングや女子卓球に見られたように、試合の苦しい局面をより大きな勝負どころを見据えながら打開する戦略も生み出されていました。
そうした人格的な安定感は、試合後のインタビューで、多くのアスリートが見せた落ち着いた自己分析によく表れていました。
わが国の将来を背負う次世代のパワーは、決して小さくはないようです。

 

 

読書ノート4 :『偽善エコロジー』(武田邦彦著、幻冬舎新書刊)

本レポートでもたびたび指摘してきた「環境主義」「エコロジー」の欺瞞性について、やっと専門家が体系的にまとめてくれた、いわば決定版の一冊です。

「こんなことをやって何になるのか」、「ひょっとしたら本当は違うのではないか?」……、日頃リサイクルや「環境保護」にまつわる様々な施策について感じる素朴な疑問。そうした疑問が、実はほとんどすべてその通りだったのだということが、本書では具体的な裏付けデータに基づいて、平明にすっきりと整理されています。

 

例えば、近年業績不振から外資系の支援の仰ぎつつ経営再建に懸命の某大手スーパーにいくと、いつもレジで、「レジ袋はお使いになりますか?」としつこく訊かれます。
このしつこさにうんざりしているのは、筆者だけではないでしょう。というのも、こちらは手ぶらで、買い物を入れるバック等持っていないことは一目明らかなのに、客の方を見もしないでマニュアルどおりに訊いてくるのです。そこには、商売とはいえ忘れてはならないはずの最低限の人間性やコミュニケーションは全く存在していません。
それでも、悲しいかな化学の専門性に欠けるため、「レジ袋を削減することにひょっとしたら環境上のメリットが若干でもあるのかもしれない」という一抹の「疑問」を払拭できず、このレジ対応の「しつこさ」に、これまでは残念ながら堂々と対応できませんでした。
ところが、本書を一読すれば、こうした「疑問」は一気に雲散霧消します。
いわく、「レジ袋は、従来石油の不要成分として燃やされていた部分を活用した、極めて優れた製品」、「レジ袋を使わなくなると、有効活用されていた石油成分を燃やさなければならなくなることに加えて、他の袋を作るなどしてトータルとしての石油消費量が増加してしまう」。
本書の明快さは、検討項目毎に結論(※「判定」)を一言ではっきりと示してくれるところです。例えば、「レジ袋削減」への判定は、“ただのエゴ!”というように、気持ちよく断定してくれます。
こうした明快な筆致で、数々の「もやもや」が、一刀両断の下次々に解決していきます。
−「割り箸を使わずにマイ箸を持つ」⇒判定:“ただのエゴ”
−「石油をやめバイオエタノールに」⇒判定:“ただのエゴ”
−「温暖化はCO2削減で防げる」⇒判定:“防げない”
−「温暖化で世界は水浸しになる」⇒判定:“ならない”
−「生ごみを堆肥にする」⇒判定:“危ない”
−「牛乳パックのリサイクル」⇒判定:“意味なし”
−「ペットボトルのリサイクル」⇒判定:“よくない”
−「ゴミの分別」⇒判定:“意味なし”……………。

 

「ダイオキシンは人体には無害」、「ゴミの分別は意味がない」に至っては、これが科学的な根拠に基づいて完全に断定されていることには、本当に驚かされました。
しかしながら、本書の本当の素晴らしさは、単に「エコロジー」を実証的に批判するだけでなく、環境や自然との共生、現代社会の諸問題を克服した社会像といったことに関して、著者が確固たる信念を持っていることでしょう。
例えば、安易に「リサイクル」に流れるのではなく、ペットボトルやレジ袋を繰り返し使用する等、モノを捨てず大切に使う心の重要性が、最後に繰り返し説かれています。
私達がわが国の恵まれた自然環境の中で古来から育んできたモノを大切にする心と生活習慣、それこそが、産業主義、経済成長主義と表裏一体をなす「偽善としてのエコロジー」への最強のアンチテーゼなのです。

 

※関連レポート:『環境主義の未来』(2008.2定期レポート)




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