定期レポート2007年11月

ソフィア・アイ : 暴力と制度

 

 世界を見渡すと、わが国の「平和状況」が、国際的には極めて稀な現象に過ぎないことが分かります。
 東アジアでは北朝鮮は言うまでもなく、超経済成長国となった中国でも、チベットはじめ農山村部での民族抑圧や武力弾圧が続いていると伝えられています。
 東南アジアでは、先日軍事政権下のミャンマーで大規模な民主化運動弾圧が発生し、日本人ジャーナリストが犠牲になったことは記憶に新しいところです。また、タイ、カンボジア、フィリピン、インドネシアといった国々は、いずれも依然として自国内に武力紛争を抱えています。
 南アジアの大半を占めるインドとパキスタンは、長年にわたって深刻な国境紛争を繰り返し、遂に近年両国共に核武装に至りました。また、パキスタンでは、追い込まれたムシャラフ政権によってつい最近非常事態宣言が出される等混乱が続いています。
 中東諸国はいうまでもなく、紛争と戦乱の坩堝です。
 近年米国が仕掛けたイラク戦争がその状況に重大な拍車を掛け、イラクやパレスチナでは自爆テロが繰り返される出口の見つからない状況に至っています。
 また、アフリカも例外ではありません。近年北アフリカのスーダンで発生している内戦による住民虐殺は、数十万人に及ぶ犠牲を生み出す最悪の事態になっていると伝えられています。
 こうしてみると世界は、秩序と同量以上の暴力に支配されているように思われます。

 ところで、では、わが国はじめ「先進諸国」の社会は暴力に支配されるウエイトが、本当に低いのでしょうか。
 約10数年前悪夢のようなサリン事件を引き起こした一連のオウム騒動は、まだ決して古い記憶ではありません。私達は、この事件を通じて、新興宗教に象徴される信仰の“カルト的側面”の現実を、十二分に見つめたはずでした。ところが、つい先日の長野の教団でのリンチ殺人事件に見られるように、“カルト的信仰”が生み出す暴力を、私達はいまだ日常的に目撃しています。
 また、80年代まではさほど深刻ではなかった学校における“いじめ”(としての暴力)は、近年はすっかり社会に根付いてしまった感があります。
 九州福岡で連続した射殺事件に見られるように、直接の暴力が支配する“闇社会”は、コインの裏と表のように、市民社会に密着して存在しています。
 わが国では戦争や内乱こそ遠い記憶の彼方にあるとはいえ、暴力はむしろいまだ“日常”と言えなくもないのが現実なのです。
 暴力とは、言うまでもなく、問答無用の一方通行の対応を通じて、自己の言い分を他者に押し通そうとする無秩序の“力”です。
 ところで、それは、上に見たような顕在化した現象だけなのでしょうか。そうではないでしょう。もっと巧妙に、狡猾に張り巡らされた「暴力」があることを、私達の多くは経験的に知っているはずです。権力、国家、制度、社会規範、階級……、これらはいずれも、問答無用の一方通行の意志を貫くための、むしろ秩序としての制度メカニズムに他なりません。
 そう、ほとんどの“制度”の深層には、暴力が潜在しているのです。
 それは、経済システムや企業組織においても、もちろん例外ではありません。
 カール・マルクスは、『資本論』の少し前に書いた『経済学批判要綱』の中で、貨幣について論じながら、次のような謎めいた言葉を残しています。
 「本質的には同一物を構成しておりながら強力的に分離されている諸要素は、暴力的な爆発を通じて、本質的には同一物の成分の分離たる自己を顕示することが、絶対に必要である。統一は暴力的に回復される。」(『経済学批判要綱』、邦訳大月書店刊)
 「強力的に分離されている諸要素」、それは経済秩序を維持するために捨て去られた、私達人間の本来的なコミュニケーションのあり方のことと推測できます。
 資本主義を前提にしなければ、私達は必要な食料や衣服や住居を、自らの手で生産しなければ生きていけません。農業が好きな人が多少余計に農作物を生産したとしても、それは顔見知りの裁縫が好きな友人が生産したセーターやマフラーと交換する程度のことでしょう。自分のために、あるいは心が通じた家族や友人のために行う経済活動。そこでは、生産することとその目的は、不可分一体の生命活動として生き生きと実感されています。
 ところが、国家によって組織された経済社会の中では、生産とその目的はいわば制度によって“暴力的に”分離され、私達は生産すること本来の実感をすでに経験することはできません。そして、その「分離」が本当に暴力となって顕在化しないように、暴力的な要素は、貨幣や資本といった経済システムの中に押し込められている。マルクスはそう語っているのです。
 さらに、しかしながら「本質的には同一物」であるものたちは、いずれそのあり方の「暴力的な回復」を目指して爆発することになるだろうと、予言していたのでした。
 今日の私達の社会は、マルクスの予言の、一体どのあたりのプロセスを彷徨っているのでしょうか?

 

キーワード紹介6 : “コミットメント”

 

 人材育成の重要性が見直される状況の中で、仕事への意欲・やる気を重視する必要から、人材のモチベーションが昨今注目されています。
 一方、一般的な普及とまではいかないまでも、“コミットメント”の重要性も語られることが多くなりました。そこには、人事評価や人材アセスメントにおいて、人材の能力をコンピテンシーとして把握する試みが多く行われるようになっている事情が関係しています。
 コミットメントの意味を日本語によって一言で表現するのは難しいのですが、差し当たり仕事や趣味に対して取り組む姿勢、その本気の程度のことと言えそうです。
 例えば、寝食を忘れて仕事に日夜没頭している人の様子を、「コミットメントが高い」というように表現します。これなどはまさに、取組み姿勢とその本気レベルのことを表しています。
 用語として整理すると、モチベーションが比較的心情レベルでのやる気・意欲を指すのに対して、コミットメントはそれを行動的側面から把握する概念と言えます。

 では、コンピテンシーの普及に伴ってコミットメントに注目する必要性が高まるのはなぜなのでしょうか?
 その鍵は、“コンピテンシー”という能力の把握の仕方の中にあります。
 コンピテンシーには、次の3つの特徴があります。
 ? 知識・技術といった形式知や、技能・スキルといった限定的な目的のための能力を活用する、総合的能力であること
 ? 成果・業績といったアウトプットに直接結びつく能力であること
 ? ??であるがゆえに、客観的に整理することが難しい人格的な能力であること
 以上の特徴から、コンピテンシーの把握(評価)は、その行動に着目して行う必要があるというのが定説です。予め整理された形式情報との照合ではなく、実際の行動の有効性をその人毎に検証する必要があるわけです。
 そして、行動の有効性を検証する上で重要になるのが、コミットメントレベルです。目的をどの程度真摯に受け止め、本気で職務に取り組んでいるかどうか。その視野は、どの程度の広がりを持っているか。必要な情報を的確に理解し、迅速に行動に移しているかどうか。行動した結果を検証し、適切なアクションに結び付けているかどうか。また、そうした職務プロセス全体の中での自分の認識や行動を客観的に振り返っているかどうか。そうしたことがコミットメントレベルとして問われます。
 結局、コミットメントは、コンピテンシーの一部であり、その重要な前提条件とも言えるのです。



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